Re: 「普通の学校化計画」について
投稿者:まこと
- 2001/07/22(Sun) 01:53:52
97年卒、大学1年生!のまことと言います。
管理人さんから、MLを経て面白い議論がされているとメールを頂き、
拝見させて頂いて、事は東葛のみならず、公教育全体に関わる問題であり、総じて興味深く思われました。保護者のひとりさんの問題提起は現在の保護者の方々の多数的意見かは存じませんが、中々現在の東葛の情報が伝わってこない私達卒業生や、自分の親以外の保護者の方々の意見をあまり知らないであろう在校生に対し、今東葛で行われようとしていることに対して、しっかりと発信しておこうという姿勢が見られ、その点に対しては大変好感が持てました。
しかし、いくつかの問題点として挙げられるのは、教育者、保護者と同等に、学校の構成員である(いくつかの宣言による慣習は別として、これは法的には認められてはいないかも知れないが)生徒を主体者として見ず、その視野から外れている点。
「納税者」という言葉に多様な意見を一括りにしている暴力。
校長の下に権力を集中させ、一括した体制下に教師をコントロールし、教育を一定の、等質のものへとさせようという点。
そして、法を逆手にとって、現状を違法状態と規定していますが、この場合法を厳格に守るかどうかは諸条件を比較考量した上で決定すれば良い事柄のように思われます。
(法学部なんですがまだ法律はよくわかっていないんで間違ってる可能性大)。
「現状の行事(お祭)中心の制度は、一部組合系教師がその理念に従って形成した」として、制度の正当性を問題とするやり方は、まるで憲法改正論者のそれとだぶりますが、現実としてその制度を30年近く私達が選択して運用してきたことに対しての視点が欠けています。
「組合の影響保持」の為にあたかも生徒が利用され続けてきたような記述には賛成できません。
校長が現状で良いのだ、とすることで合法とされてきたのならもう一度教員、生徒、保護者及び地域の人々や卒業生も交え議論を重ね、合意を目指せば、合法ということになるんですよね。
ここで、卒業生も議論に参加としたことは慎重に考えなければなりません。
私は今まで、卒業生はもはや直接学校には関係なにのだからでしゃばるべきではないと考えていました。
しかし、桝飛雄真さんらの意見の影響もあり、やはり自分の事として考える必要があるように思われたのです。
ですから、東葛に対してだけでなく、近所の小中高校、大学、また全然関係ないような離れた教育機関に対しても直接何か働きかけることはできなくとも、少なくともアンテナを張ってそこで行われていることに関心は持っていこうと思いました。
ただ卒業生のロマンティシズムの為にだけ、東葛の独自性というのが寄与するのならそのようなものはなくなった方が良いのです。
「進学校」(この言葉で一括りにするのは危険ですが)の中でも「少し風変わりな進学校」(最悪の言葉)という地位を保ちたいため、「進学校」の中でもさらに差別化を図ろうとするのは愚劣な行為です。
問題は日本においては、各学校ごとの地域的、文化的、歴史的、社会的等の差異を認めず、均質なものへと向かう動き、中央へと向かう力が見られるということです。
東葛地域にも普通の進路指導をしっかりとする進学校が欲しいという保護者のひとりさんの本音は自らの欲望について語っているだけであり、他の生徒への視点がそこには不在であり、そこへ社会全体の厚生を考えた「納税者」の観点なるものを持ち出すのは欺瞞です。
しかし、この自分本意の考えはわたしたちにも少なからずあったものと認めざるを得ません。
東葛「内」にあっては、それは異質な「外」を排除する力が働いているのは事実なんです。
それは、例えば、卒業生はなるべく口を出すべきではない、という卒業生の自粛に繋がり、本来開かれているべき場であるべきなのに非常に閉鎖的な空間をそこに形成し続けているのですから。
各学校が持っていられるのが当然な固有性が失われていて、たまたま東葛がそれを形骸化しつつも守ってこれただけであり、相対的なものでしかないのですから、それを卒業生が何年ごとに会う度の酒の肴程度のものだけにするのはどうかと思うのです。
それと同時に固定化した「東葛」という概念はあまり歓迎できません。
在校生の意志によってそれは柔軟性を帯びたものとしてどんどん変えていくことは大歓迎です。
東葛の「内」においては周縁的存在である卒業生や地域の人々を組み込んだうえで、かつそのときどきの在校生の望む形へと変貌していくことは卒業生も住民の人々も異論はないと思います。
先程「形骸化」と言いましたが、それでもその可能性は失われていないと思うのは、わたしやまわりの友人などを見て考えるからです。
わたし自身高校生の頃は生徒会や事務局などにはノータッチで政治的なことには無関心、と言うよりは意識的に避けていました。
(見事に文部官僚による無政治化が成功した一つの例)。
しかし、今政治に少し関心を持って、関連した分野へ転向したことや、周囲の人たちが色々なことを考えていることを目の当りにすると、その背景として東葛という場が果たした役割は否定できません。これを他校と比較する気はありません。
「普通の進学校」と「ちょっと変わった進学校」という二項対立は不毛です。
どうして、学校は現場の教師や生徒や保護者や住民のものではないのでしょう。
中央の役人の決めた指導要領の下、その支配下の教育委員会が各校長の首をひっつかまえて、校長は各教師をしっかり管理して、教師はさらに生徒を管理してというパラレルな構造は馬鹿らしいです。
視点を、国家からこの場合、個人へとずらすべきです。
それぞれが「しなやかな知」をゆっくりと形成していくための空間として存在する学校(わたしはゆーっくりと)。
たとえそれが失われつつあろうとも、「進学校」の看板なんかよりも重要なものであり、「普通」という語の内に同一化を図るのは大きな暴力です。
東葛につきものの「自由な」という語がある種のいかがわしさを抱えているのは事実で、ちょうどかつての日比谷高校が「いやったらしさ」と形容されたように、その「自由」という語が他者との違いをあからさまに示し、自分は受験なんか関係ないよという顔して、みなある程度の大学へと進む樣は異様です。
だからといって、学校群制度によって均質化して独自性が失われた都立校のように、制度によって無理矢理「普通」化するのは反対です。
ある種の異様と思われるのはなぜか。
それを考えていくことが、鍵になるのではないかと思います。
以上長くてぐちゃぐちゃになってすみません。 |